縁起

圓福寺略縁起

  • 【円福寺略縁起】
    白隠禅師の高弟の一人である 斯経慧梁(しきょう えりょう)禅師 は若い頃より常に、仏法久住のためには「宗派や法脈にかかわらない道場」の建立が必要だと考えていました。しかるところ因縁が熟し、天明3年(1783年)3月に石清水八幡宮別当田中家より達磨の古尊像等を譲り受け、同年6月には浅井周斎居士より八幡幣原谷の土地の寄進を受け、大應国師を勧請して開山とし、ここに臨済宗最初の専門道場である江湖道場円福寺が建立されました。また、この古尊像を坐禅堂の本尊として奉安したことにより円福寺は「達磨堂」とも称されるようになりました(「願心道場旨趣」より)。
    現在、境内地は京都府八幡市、大阪府枚方市にまたがって三万坪を数え、山門・本堂・庫裡・禅堂・有栖川宮旧御殿等多くの建物が甍を連ね、洛南の一大道場として雲水(修行僧)衆が日夜坐禅托鉢等に精進しております。
  • -斯経慧梁(しきょう えりょう)禅師-
    享保7年(1722年)播州姫路生まれ。姓は管氏。12歳の時に妙心寺海福院東明和尚の室に入り剃髪授戒する。17歳の時行脚して大分の少林寺寒巌壊灰禅師の室に入り随従すること6年。寒巌禅師遷化の後、今度は駿河の白隠禅師に参じ、ついに玄微に徹する。28歳の時、白隠禅師の依頼により「遠羅天釜(おらてがま)」の跋を書上(その他、白隠禅師の「槐安国語(かいあんこくご)」の原稿を整理閲読)。帰京して36歳の時、妙心寺第一座に上がり妙心寺海福院に住する。以来 江湖の雲衲(雲水)が参集しはじめ、やがて道俗にかかわらず四衆を接化する。天明2年(1782年)60歳の頃かねてからの悲願であった「江湖道場」建立の機がだんだんと熟し、同年12月4日に浪速の直指庵が再興され開祖として請ぜられる。ここを中心として江湖道場の建立計画が進み、翌天明3年3月24日には田中家から達磨像、御朱印、後西院天皇から御下賜の椅子等を譲り受け、6月には南山焼の浅井周斎居士から幣原谷の土地の寄進を受ける。同年その他大檀越より寄進を受け庵室一宇が建立され、翌天明4年9月1日には達磨堂が完成、入佛式が行われる。天明6年12月8日妙心寺派末寺として編入され、江湖道場として開単。同年12月病床にあって「願心道場旨趣」「雄徳山圓福寺制規」を執筆、年が明けて正月23日に遷化。法臈54歳(世寿66歳)。師の遷化により江湖道場の建立が頓挫したが、圓福寺ではこの江湖道場建立の大願を発起された「願起和尚」として崇奉し、その遺骨と木像は達磨堂の中に安置されている。敕諡扶宗大綱禅師。
萬人講